去る2018年2月10日、藤沢の江ノ電沿線新聞社主催で「横浜ドリームランドを語る会」イベントが行われました。
参加者は元従業員さんが7~8名ほど、ドリームにゆかりのある人、遊園地好きが6~7人というメンバー。
「さよなら横浜ドリームランド」を観て自己紹介とドリームについてを1人づつ話し、Facebookで交流させて頂いてる、元音楽隊さんからの70年代のパレード音源と参加者ご持参の横浜ドリームランドがロケ地になった「ザ・ガードマン22話」を視聴しました。
▼印象に残った話を箇条書き▼
・防衛博覧会(自衛隊協力)
戦闘訓練などの催しをドリームハイツになったあたり(正面入口東側?)で行っていた。防衛博で戦闘機がエンパイアホテルより下まで低空飛行した。
・初期のアトラクションは変速機が単純なものだったが、後々増えた外国輸入のアトラクションはプログラム運転なので修理が大変だった。シャトルループは毎朝点検していた。コンドルが運転中、途中で止まってしまい、はしご車で乗客を救出した。
・老朽化で難しいものもあったが、閉園の日は全部動かした。夜11時くらいまで動かした。無事終了できてよかった。
・ラクダに乗ってパレードなどもあった。(園内飼育担当)動物のお産にも立ち会った。
・フォーク・ソングが流行り、ドリームから新しいバンドが誕生していた。
・モノレール駅を壊す前に芸術グループがアトリエに使ってて、その中で映画上映をするので見に行った。
(モノレール運転中は定期をもらって出勤していた社員さんもいました)
・ヘリの遊泳はエンパイアホテルなどがないころは江ノ島まで飛んでいた。園内回周は3000円、江ノ島は5000円だった。
・「キイハンター」にはドリームランドが良く出ていた。
・今のようなコンピュータ操作や自動でなく、アドリブや人が動かしている暖かさがあった。
・「湘南あそびが丘」と言う名称は、宮廷庭園が無料になった時(ラブスクエア)ごろから付けたのだと思う。
⇒これは疑問に思っていて、手持ちの資料には正確にわかるものがありません。
85年以降は使われているようなので、正確にはドリーム自体が敢えて「日本向け」を意識してPRを始めた、TDL誕生前後頃かもしれないと思ってます。
参加者様の貴重な話を聞かせていただき、本当に有意義な時間でした。
主催の江ノ電沿線新聞社会長の吉田克彦様はこのイベントを開催した趣旨として地元ながら若い人が横浜ドリームランドの存在を知らなくなっている事を挙げられていました。
それはまさしくこのHPを立ち上げた理由と同じです。
ドリームランドの素晴らしさを当時の方々に失礼のないように、閉園後に生まれた人たちにも伝えていく資料館のようにHPを作っていければと思っています。
課題は、ドリームに縁のある人々がインターネットを利用しない世代なために、なかなか見つけていただけないところです。
形が無くなった横浜ドリームランドを語り継ぐために、ネットだけでなくこうしたイベントや展示会を企画できれば、多くの年齢層の方に知って頂けるのかもしれません。
今回は当HPの宣伝をする時間も作っていただけましたので、これを機に認知が少しでも上がれば、と願っています。
▼会場で聴いた音楽隊の音源(1972年1月9日のもの)です。
サプライズでした。有難うございます!
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